- 2005-01-17 (月)
- Etc
これはワタシが4年ほど前に以前にやってたWebに載せていたものなのですが。
忘れてしまう前に、もう一度。多少手を加えて。
そのとき 私は高速道路の上にいた。
幸せな3連休の思い出を反芻しながら目を覚まし、窓の外に広がるまだ暗い街を見ていた。
もうすぐ着くな そう思ったときいきなりそれはやってきた。
バスは突然跳ねた。パンクでもしたのかと思った。
網棚の小さい荷物は落ちてくるわ 客席のテレビは左右に動いてるわ
何より自分もバスと一緒にぽんぽん跳ねて天井に何度も頭をぶつけた。
ああ、地震ですね。シートベルトしてつかまっててくださいね。
運転手さんの冷静な声が車内に響いた。
そう長い時間でもなかったのだろうが収まるまで結構かかったように感じた。
揺れがおさまってバスは高速道路の上に停まった。
運転手さんがTVをつけてくれた…が、流れるのは 垂水でビルがぽっきり折れてるだのなんだのわけのわかんない情報ばかり。
そのうち夜が白みはじめ 眼下の街のあちらこちらで火の手があがるのが見えた。
運転手さんがどうにか降りられるところを探してきて それでも念のため、ということで
人間は全員降りて歩いて バスを空にして高速道路から43号線に降りた。
それから三宮まで走る道中 倒れた高速道路 崩れた家々 車内はずっとしんとしていた。
バスは姫路までだった。
姫路まで連れて行かれても困るし途中で降ろすこともできないという。仕方なく三宮でバスを降りた。
電車など当然動いていない。タクシーでも拾えればと思った。が、そんなもの通りもしない。
バスを降りたそごうの前で途方にくれていた。と、背後から
ずずん。
腹の底に響くような音がした。何事だろう。振り返ると後ろの路地でビルが倒れていた。
だんだんとガスの匂いが漂い始めた。
こんなところにいつまでもいては危ない。家に帰ろう。
やっとそう決心して 旅行帰りの荷物を引きずって歩き始めた。
見慣れているはずの線路沿いの道。まるで風景が違う。
途中で生きている公衆電話をやっと見つけ 家に電話するも当然通じない。昨日まで一緒にいた友達に電話をして 家に連絡してくれるように頼んでまた歩き始めた。
この時点でまだ私は 西に行くほど酷くなることを認識していない。
新開地にさしかかって唖然とした。三菱銀行が崩れていた。
少し北のコンビニで何か売ろうとしていた。お釣りが出せないからと全部切り上げだったが
それでも少しでも何か買って帰ったほうがよかろうと 菓子パンを2つ3つ買った。
上沢通りをさらに西へ歩く。
ところどころ家が燃えていた。助け出された人が布団に包まって舗道に座り込んでいた。
もう何も考えられなくなっていた。ただただ歩き続けた。
見慣れた商店街の赤い鳥居。
その奥の無残に崩れたアーケードを見て ...そこからどこを通って家まで帰ったのか覚えていない。
たどり着いてまず私がしたことはといえば 大事な相方の姿を確かめることだった。
マンションの12Fの家に上がるより前に まず駐輪場を覗いた。
あんなひどい揺れだったのに バイク屋のバイクはぜんぶひっくりかえってたのに
相方は駐輪場でしっかり立っていた。キズひとつなく。
バイクを置かせてもらっていた隣のマンションの下で 隣のマンションに住んでいた父の会社の人と何か相談していた父にたまたま出会い一緒に12Fにあがる。停電中でエレベーターなど使えない。歩いてあがる。
家に入り「ただいま」とドアを開けて母の一言。
ウエッジウッドもロイヤルコペンもぜーんぶ割れたのよ!!...あの、母上?
ま、ブランドもの陶器はともかくとして 日常使っていたポットも割れてしまったとかで 前の日に会った友達にたまたま「荷物になるかもしれないけど」ってもらったクリスマスプレゼントのAfternoonteaのティーセットは早速役にたった。
家でひといきついて 親に頼まれて街に出た。
ヘルメットとバイクのキーを取るために自分の部屋のドアをあけた。
...そこは何がどうなってるのかよくわからないことになっていた。
本棚は倒れ、パソコンデスクの上にのっていたディスプレイとPCはすっとんきょうな方向に飛び。
当時使っていたパイプのロフトベッドは斜めに傾き その上の布団には蛍光灯の破片が激しくちらばっていた。
旅に出ていなくて家で眠っていたら私はどんな怪我をしていただろう。少し怖くなった。
とっちらかった部屋の中からヘルメットとバイクのキーを探した。
ライディングジャケットのかわりに壁にかかってたスキーウェアの上をどうにか取り出して
頼まれごとのメモを手にとり 相方と街へ。
生きている電話はすぐにわかった。すごい列ができていたから。
列にならぶかどうしようかと思案しつつ そういえば会社の玄関に公衆電話があったなと思い会社に向かった。
玄関の公衆電話は生きていて そこで親戚と兄と友達に大丈夫だからと電話を入れて帰ろうとした。
(ここで会社の人に連絡をせずに戻ったため、4日ほど私は行方不明リストから名前が消えなかったそうだ)
行きに走った尻池から御蔵を抜ける道はすでに走れなくなっていた。火の海に呑まれていたのだ。
迂回に迂回を繰り返し 渋滞の中を抜け 行きの何倍もの時間をかけて どうにか家に帰ったのは夕方のことだった。
電気だけ復活していたけど 水もないガスもない電話もダメ。
とてもじゃないが自分の部屋のロフトベッドに眠る気にはなれず
燃えている街を映す映像をぼーっと眺めながら 居間に客布団を敷いて眠った。
私の 1995年1月17日はそんなふうだった。
電話がつながったのはそれから3日は後のことだっただろうか。
水道やガスが復旧するまでにはさらに数ヶ月要した。
電車は開通し区画整理も進んだ。今では平穏な生活になったようにも見える。
けれどまだ 家の近くにはあの日のまま傾いたままの家が残っている。
これを書いてから、4年の月日が経ちました。
実際のところ、私は震災で誰か近しい人を亡くしたわけでも怪我をしたわけでもなく、直接の被害をほとんど受けなかった部類の人間なのだと思います。それでもあれこれ思うものですし 震災の報道などみると目が潤んでしまいます。
震災から10年、その間に実家(一部損壊)の補修があり ところどころひびのはいったりしていた実家はきれいになりました。
私は結婚をして家を出て 最初に住んでいたアパートは震災の影響なのか 日々が経つにつれて網戸がまっすぐ閉まらなくなったりとかしていました。そんな家からも引越し、今は震災後に取り壊された市営住宅かなにかの跡地に立った家に住んでいます。
街はたしかにきれいになりました。昔の町並みを思い出すのがちょっとむずかしいほど。
だけど 上に書いてある傾いたままの家は まだ傾いたままです。倒れないようにするためのつっかい棒が時折増えています。そんな感じで壊せもせず立て直せもしない建物はまだたくさんあるのだろうと思います。元町のはじっこにあるホテルがいい例なのではないでしょうか。
復興したのかどうか、わたしにはわかりません。母校の先生の言葉を借りるなら
外側はできたけれど 中身はまだできていないって感じなのかもしれません。
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Comment:2
- ぷ 2005-02-14 (月) 21:13
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以前奥尻島に行ったときもそうだった。
外側の復興は思ったより早いけど、
少し奥に入ると、
転がり落ちた車がまだ放置されていたり、
プレハブの建物があったり。早く忘れたいから外側を直して、
中身ができないから忘れられなくて、
外の人は外しか見ないから忘れ去られていくのかな。震災や災害は、
知恵だけ残して忘れたほうがいいのか、
悲劇も含めて語り継いだほうがいいのか、
私にはわからないけど。 - 監督 2005-02-28 (月) 00:34
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今、仕事で住宅営業だけど、芦屋や西宮あたりには
まだまだ、震災で出来た空き地が点在しているのは
いつも悲しい思いで、みています。何年たっても、あの大惨事は忘れられないものです。
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